チベット密教 仏教 宗教 輪廻転生・生まれ変わり

〈チベット密教〉の歴史を、簡単に解説します。・・・インド後期密教の伝播

 

チベット仏教といえば、ダライ・ラマや、「チベットの死者の書」を思い浮かべる人が多いと思います。

凄まじい霊力を持つチベット密教(仏教)。

 

ここでは、チベット密教(仏教)の歴史を解説していきます。

 

Contents 目次

1、吐蕃王国への仏教伝来(〜7世紀)

1、ボン教との対立、そして習合

チベット密教は、インド後期大乗仏教を引き継いでいます。

中国や日本と同様に、「北伝仏教」に属しています。

その信仰は、モンゴル、ロシアの一部、ネパール、ブータンなどにも根付いています。

 

チベットには、もともとボン教という土着の民族宗教がありました。

ボン教とは、万物には全て霊が宿っているという汎神論を基調と敷いたものです。

それは呪術的な要素が強く、祖先崇拝を行う民族宗教です。

 

仏教が伝来すると、もともとあったボン教と激しく対立するようになります。

その対立関係は300年以上にも及んだといわれます。

 

その後、次第に、両者は接近するようになりました。

すなわち、チベット仏教側に、ボン教の神々と宗教儀礼が習合(異なるふたつ以上の教義などを折衷すること)しました。

そして、ボン教側はチベット仏教の教理を吸収したのです。

 

ですので、現在でもボン教は存在しますが、今日のボン教は、チベット密教の一派と言っても良いほどに著しく仏教化しています

 

カルチャーというものは、よりレベルの高いものが、上から下に流れていきながら、それまで元々あったカルチャーに浸透していくものです。

 

これは日本が、もともとの神道と、あとから入ってきた仏教との関係によく似ているかもしれません。

 

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2、チベットへの仏教の伝来

 

チベットに初めて仏教が伝来したのは5世紀後半といわれています。

仏教が初めて公式に伝えられたものとして確実視されているものは、ソンツェン・ガルポ王(在位593年ー650年ころ)の時代です。

彼は、チベット初の統一王国(吐蕃王朝)を樹立した英雄的な人です。

(ソンツェン・ガルポ王)

日本の公式の仏教伝来が、538年ですから、それよりもやや遅かったようです。

 

このソンツェン・ガルポ王の二人の王妃、分成公主(ぶんせいこうしゅ)ティツンによって、初めて仏教がもたらされました。

この時ラサには、文成公主によって小昭寺(ラモチェ)を建立され、ティツンによって大昭寺(トゥルナン)が建立されました。

 

 

2、チベット密教の確立の時代(8世紀〜10世紀)

 

1、ティソン・デツィン王による、仏教の本格的な普及

 

ティソン・デツェン王(在位755年ー797年)の時代には、唐の都・長安を占領するなど、チベットの支配領域が最大に達していますこの王の時代には、いよいよ本格的に仏教が普及し始めました。

幼少期にボン教徒によって、廃仏が行われたのをみていたティソン・デツェン王は、仏教を国教化しました。

彼は、インド後期の大乗仏教と密教に精通したシャーンタラクシタ(787年ころ)を招き、仏教の教えを受けました。

彼はインドのナーランダ大僧院(ナーランダ大学)の長老でした。

そしてインドから12人の僧侶を呼び寄せ、6人のチベット人出家者に具足戒を授けました(仏教の教えのもとに教団に入り、正規の出家修行者である比丘・比丘尼の資格を得ること)。

 

2、パドマサンバヴァの登場

さらに王は、パドマサンバヴァ(8世紀後半ころ)をインドから招き、チベット最初の国立仏教寺院のサムイェ寺が創建されました。

このパドマサンバヴァは、シャーンタラクシタとともにチベット仏教の祖と言われる人です。

そしてニンマ派の創始者でもあります。

チベットやブータンでは、グル・リンポチェ(導師様)の愛称の元、宗派を超えた民衆の支持を得ています。

チベット埋蔵経典

パドマサンバヴァは、チベットがまだ自分が有する密教の教えを理解できるほどには成熟していないと考え、その教えの多くをチベットの各地に埋蔵しました。

有名な「チベットの死者の書」もその一つです。

 

さらにサムイェ寺では、サンスクリット語経典をチベット語に翻訳する事業が行われ、それがのちの「チベット大蔵経」の成立へとつながっていきます。

3、受難の時代と、古密教の発展

 

その後、9世紀半ばには、ラン・ダルマ王(在位836年ー842年)の廃仏政策によって、仏教は受難の時代を迎えたと言われます。

ただし、ラン・ダルマ王自身は仏教に理解があったとされ、周囲の状況によってやむ得なくそうした政策をとったともいわれます。

ラン・ダルマ王は宰相によって暗殺されています。

 

さらに、インド後期仏教の総本山ヴィクラマシーラ大寺院(ヴィクラマシーラ大学)の大学匠であるアティーシャ(982年ー1054年)が来ます。

彼は、タントラ密教の方向性を是正して、チベット仏教を興隆させる基盤を築きました。

 

この時期までに伝えられた密教は、主にパドマサンバヴァを祖とするもので、次に現れる新約の密教と区別され、「古密教(古派)」と呼ばれます。

 

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3、新約経典と四派の確立の時代(11世紀〜16世紀中盤)

1、膨大な数の新約経典の翻訳

 

西チベット出身の翻訳官、リンチェンサンポによって、膨大な数の経典が翻訳されました。

その中でも中核に位置するのが、新約密教聖典の「秘密集会タントラ」「初会金剛頂経でした。

それぞれ「無上瑜伽タントラ」「瑜伽タントラ」の基本典籍で、チベット密教では不可欠のものです。

 

タントラとは?

もともとヒンズー教の晴天(経典)を指す言葉です。

しかし聖典の意味だけにとどまらず、実戦行法に関する規則や、神を祀る次第や具体的方法なども含まれています。

 

2、チベット密教、〈4大宗派〉の確立

 

11世紀後半までに、カギュ派サキャ派が誕生します。

アティーシャの教学をベースにして、のちにツォンカパ(1357年ー1419年)が「新カダム派」=「ゲルク派」を創始します。

ツォンカパは、ラサ郊外にガンデン寺を造営しました。

ゲルク派は他派に対する影響力は大きく、その趣旨に同調したカダム派の流れを吸収合併しながら、急速に発展していきました。

 

の時代以降、チベット密教は、大きく次の4派を中心に展開していきます

  • ニンマ派
  • カギュ派
  • サキャ派
  • ゲルク派

です。

 

これらは互いに影響を及ぼしあいながら、今日に至っています。

 

4、〈活仏〉制度の誕生(16世紀中盤〜17世紀中盤)

1、〈活仏〉・・・転生ラマの誕生

〈活仏(かつぶつ)〉とは、菩薩の化身とされる、生き仏のことです。

「転生ラマ」とも呼ばれます。

 

活仏は、衆生を救うために転生を繰り返してこの世に人間として生まれてきます。

活仏が死ぬと、その転生者を探し出して、英才教育を行うのです。

 

この転生活仏制度を初めて作ったのは、カギュ派系のカルマ・カギュ黒帽派でした。

 

その後、カギュ派に刺激されて、他の宗派も活仏制度を採用していったのです。

〈活仏〉の転生については、前回の私の記事をご覧ください。

チベット〈活仏〉の輪廻転生

 


チベット密教

2、〈ダライ・ラマ〉の誕生

 

ゲルク派は、デプン寺の貫主で傑出した僧であるゲンドゥン・ギャムツォの生まれ変わり(活仏)として、ソナム・ギャムツォを選びました。

1578年、モンゴルの王侯アルタン汗の要請で、青海に説法に赴いたソナム・ギャムツォは、アルタン汗の帰依を受けると主に、「ダライ・ラマ」の称号を得ました。

 

これがダライ・ラマ3世です。

 

ゲンドゥン・ギャムツォは、のちに「ダライ・ラマ2世」として追認されます。

初代の「ダライ・ラマ1世」はゲルク派の開祖のツォンカパの一番弟子である、ゲンドゥン・ドゥプです。

 

 

〈ダライ〉は蒙古語の「大海」を意味し、〈ラマ〉はチベット語の「上人」を意味します。

 

強力な軍事力を持つアルタン汗を後援者としたゲルク派は、それ以降、政治的にカルマ・カギュ派はもとより、他宗派を圧倒していくことになります。

 

5、ダライ・ラマ法王の時代(17世紀〜現代)

 

1、最高の法王、ダライ・ラマ5世の時代

ダライ・ラマが名実ともに、宗教・政治の最高権力者として、国家元首=法王となるのは、1642年、ダライ・ラマ5世(1617年〜1682年)になってからのことです。

菅瀬音菩薩の化身とされっるダライ・ラマですが、この説が普及したのも5世の時代です。

 

5世はパンチェン・ラマ制度の創始者でもありました。

1664年に師であるパンチェン・ラマ4世が亡くなると、翌年にはツァン地方の男児を転生として認めました。

そしてツァン地本位あるタシルンポ寺の貫主に就任させました。

 

5世のパンチェン・ラマ制度の創始は、ツァン地方の当時を確固たるものにすることを目的としたものでした。

その後、パンチェン・ラマの宗教的権威は高まり、ダライ・ラマのそれに拮抗する存在になっていきました。

しかし、ダライ・ラマと違って、パンチェン・ラマには政治的な権威はありません。

 

その後チベットでは、300年に渡りダライ・ラマ政権が続きます。

 

2、チベットの受難

1909年には、清がラサに攻め入り、ダライ・ラマ13世とチベット政府の高官はインドに亡命しています。

翌年には、辛亥革命のため清が滅亡し、国民政府が誕生しました。

それに伴いダライ・ラマ13世はチベットに戻り、チベットの独立を宣言しました。

 

3、ダライ・ラマ14世の時代

 

現在のダライ・ラマ14世の時代になると、中国人民解放軍がチベットに侵攻しました。

そのため、1959年にダライ・ラマ14世はインドのダラムサラに亡命することになります。

この地において、ダライ・ラマ14世を法王とする亡命政権を樹立しました。

 

チベットの寺のほとんどは、文化大革命によって破壊され、僧侶も弾圧されるなど、チベット仏教は危機的な状況に陥りました。

 

現在も亡命中のダライ・ラマ14世は、世界平和の実現を強調する幅広い活動により、1989年にはノーベル平和賞を受賞しています。

 

ブッダ釈尊の説く「輪廻転生」については、この記事をご参照ください。⬇︎

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