仏教 歴史

密教行者・後醍醐天皇

 

前回、湊川神社と楠木正成、そして後醍醐天皇のことを書きました。

 

この後醍醐天皇ですが、実は、天皇の歴史上一番の〈密教行者〉だったのをご存知でしょうか?

 

今回は、その後醍醐天皇の密教行者としての側面を中心にみていこうと思います。

 

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〈楠木正成〉が活躍した、この時代の流れを、わかりやすくまとめてみました。

Contents 目次

1、現職の天皇が、密教祈祷を行う

 

第96代・後醍醐天皇の特異さは、鎌倉幕府の倒幕に意欲を燃やしただけではありません。

他の天皇と比べて異色なのは、倒幕と並行して、天皇自身が真言密教の祈祷を行った点です。

 

天皇であるから、寺社に対して、祈祷を命じることは、当たり前の時代でした。

僧侶などは、天皇に使える身として、天皇の命じるままに祈祷を行うのが常でした。

後醍醐天皇も当然、これまでの天皇と同様に、寺社に命じて祈祷をおこなわせていたことでしょう。

 

ところが、後醍醐天皇はそれだけでは満足せず、自ら法衣をつけて自分で密教の祈祷を行ったのです。

 

天皇史上、この様のことは後醍醐天皇以外にはいない様です。

 

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2、後醍醐天皇の祈祷

後醍醐天皇が天皇に即位してから行った、主だった祈祷は次の2つです。

  • 聖天供
  • 金輪の法

 

1、聖天供

 

これは大聖歓喜天浴油供(だいしょうかんぎてんよくゆ)とも言われます。

 

後醍醐天皇は、1929年にこの修法を自ら行ったのです。

鎌倉幕府には、「中宮の懐妊のためのご祈祷」と説明していたが、実は鎌倉幕府の倒幕を狙っての呪詛だったのです。

 

この聖天というのは、頭が像で、男女が抱き合う姿をしています。

異形(いぎょう)の鬼神です。

 

「行者の所願に従いて・・・どのような非法悪行と雖も成就せしめたもう」

と言われる力を持つ天部の神様です。

 

〈聖天(大聖歓喜天)〉

 

なかでも、後醍醐天皇が修したといわれる「浴油供」は、聖天供の中でも最極秘とされるものです。

その効験は高くて確実ですが、あやまれば行者の身に厳罰が下るといいう、密教の中でもタブー視された秘法です。

 

事実、のちに後醍醐天皇はその願いの通りに、鎌倉幕府を倒せましたが、その後は身を追われる羽目になってしましました。

後醍醐天皇がこの法を修した1329年は、第一次倒幕計画が失敗に終わり、密かに第二次倒幕のための布石を打っていた時期でした。

 

2、金輪の法

 

これは、東寺長者のみに修することが許された、最深秘の一字金輪法のことだといわれています。

 

1333年、船上山に壇を建てた後醍醐天皇は、自ら幕府調伏のためにこれを修したといいます。

 

これは仏・菩薩を本尊として行う修法の中で、調伏の効ありとするものだそうです。

こうした数々の密教の秘法を修して、この年には、鎌倉幕府が滅亡します。

 

翌年1334年に後醍醐天皇による親政が始まります。

 

3、王権奪回後も密教に傾倒する後醍醐天皇

1、文観から秘法を伝授される

 

後醍醐天皇は当時に伝わる仏舎利を「国家鎮護の本尊、朝廷安全の秘術」として崇敬します。

 

建武2年(1335年)に、当時の秘宝である仏舎利を宮中に運び込み、17粒を後醍醐天皇に献じたのは文観(もんかん)という僧侶でした。

 

文観は、東寺の一の長者と醍醐寺の座主を兼務するまでに昇進します。

 

〈文観(1278年ー1357年〉

 

この文観は、いろいろな密教の奥義を後醍醐に伝授したのです。

後醍醐天皇に伝法灌頂(阿闍梨(師僧)となる儀式)を授けました。

 

ちなみに文観の名前ですが、これは文珠と観音から一字ずつとったそうです。

 

特に文珠信仰が著しいようです。

この文観が祀ったとされるのが荼枳尼天(ダキニ天)です。

 

2、しかし、立ったの2年で崩壊した「建武の新政」

 

建武の新政が始まって立ったの2年で、足利尊氏が反旗を翻すことになります。

その背景には、時代の流れを読み取ることができずに、自らの理想を追求するだけの後醍醐天皇への、御家人たちの不満がありました。

 

天皇がいくら密教の最秘法を駆使しても、そうした時代の流れに逆らえないのは当然と言えます。

 

足利尊氏が光明天皇を立て、この天皇から征夷大将軍に任命されて、「室町幕府」が始まるのが、1338年です。

1339年、後醍醐天皇は52歳で崩御しました(病没)。

 

3、聖俗の王となろうとした後醍醐天皇

 

後醍醐天皇の有名な画像に『絹本著色後醍醐天皇御像』(けんぽんちゃくしょくごだいごてんのうみぞう)というのがありますね。

 

 

これは、神奈川県藤沢市の清浄光寺に祀られているものです。

 

この絵で後醍醐天皇は、天皇の礼服である黄櫨染(こうろぜん)の直衣(のうし)を着ています。

そして、右手には密教法具の五鈷杵を持ち、左手には五鈷鈴を握っています。

しかも高僧としての袈裟も身にまとった姿で描かれています。

 

これは、真言密教第二祖とされる、金剛薩埵と後醍醐天皇を重ね合わせたものといいます。

 

これを製作監修したのは文観で、後醍醐天皇の崩御後に製作されたもののようです。

 

この絵に表現されている様に、後醍醐天皇は、大日如来の化身としての仏教王と、世俗権を支配する王という、聖俗二つの面で王になろうとしていたことが伺えます。

 

学校の日本史の授業に必ず出てくる後醍醐天皇。

今回は、〈密教行者〉という特異な生き方をした後醍醐天皇をご紹介しました。

 

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