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転生物語・・・あるチベットの高僧の転生

 

みなさん、こんにちは。

前回は、輪廻転生について、『チベットの死者の書』ではどう考えるか、ということと、この『死者の書』の歴史について説明しました。

今回は、比較的最近に確認された、チベットの高僧の転生物語をご紹介いたします。



Contents 目次

1、凶弾に倒れた僧

1、ラダックでのデモ

 

1982年1月24日、北インドのラダックの主都であるレーで大規模な政治でもが行われたのです。

このデモの目的は、ラダック地方をインドのなかでも遅れた地域として認定してもらうことでした。

それが通れば、インド政府から開発の特別予算が出て経済への援助が得られるからです。

 

ラダックは、国境地帯の緊張した地域です。

インドの軍事的な拠点でもあります。

ですので、市民がデモをすることはほとんどありませんでした。

しかし、この日は市民と僧侶を中心に大きなデモが行われたのです。

 

そこで、悲劇が起こりました。

レーのメイン・ストリートで興奮した警官隊が、停止を命じたのに泊まらなかったという理由で、いきなり至近距離からデモ隊に発砲したのです。

偶発的な事件でしたが、数人が負傷し、そのうち、二人が病院で死亡したのです。

 

1人は25歳の青年でした。

そしてもう一人が、リキル・ゴンパ(リキル修道院)のラマ僧だったのです。

 

僧侶が死亡したこのニュースの衝撃はラダック全体に広がりました。

そして強い抗議が続いたそうです。

そのために、レーには外出禁止の戒厳令が敷かれたそうです。

 

2、死亡した僧侶

 

リキル・ゴンパからは、30名ほどの僧侶がデモに参加していました。

警官の発砲で負傷したのは、デモのリーダーとして先頭に立って歩いていた僧侶、ソクラパ・ウチョス・ランツォクでした。

 

ランツォクは、1929年生まれ。

17年間、チベットのラサのデブン寺で修行した、ゲスコス(高位の位)として信頼されていた修行僧でした。

 

銃弾は、右足の付け根から左の肩まで貫通。

そのまま意識を失ったまま病院に運ばれたが、53歳の生涯を閉じてしまったのです。

 

当時の首相出会ったインディラ・ガンジーは、この事件を重視してデモ隊が要求したラダック後進地帯の認定を許可しました。

その結果、亡くなった青年とランツォクは、ラダックのために犠牲になった英雄となったのです。

 

2、ラマの転生物語

1、2年後に生まれた赤ん坊

 

僧侶ランツォクが銃弾に撃たれて死亡したデモ柄2年後の、1984年の9月の話です。

ラダックの主都レーから西へ約100㎞、四方を山に囲まれたティンモスガン村。

ここで、貧しい農家ツエワン家に一人の赤ちゃんが生まれました。

 

母のプンッオク・ドルマは、予定日を1カ月も遅れていたので心配していたが、無事、家の台所で丸々と太って白い肌をした男の子が生まれたのです。

 

2、母の不思議な夢

 

母は、妊娠中に男の子が天国から降りてくる夢を見ました。

その男の子は母親のほうへ近づき、母親を抱き上げたのです。

 

プンッオクはこれが5人目の子どもでしたが、今までそんな夢を見たことがなかったので、不思議に思ったそうです。

もしかしたら、この子は偉いお坊さんになるお告げかもしれないと思ったようです。

このこどもはスキッジョルと名付けられました。

 

 

3、亡くなった僧侶の叔母も、不思議な夢を見ていた

 

最初に、この赤ん坊が他の子どもと違うと感じたのは、死亡した僧侶ランツォクの叔母、シェラップ・ザンモでした。

 

死亡したランツォクは、子どもの時に母親を亡くしていました。

そのため、叔母のシェラップ・ザンモが、彼の面倒を見てきたのです。

シェラップ・ザンモは、ティンモスガンむらのツェワン家の近くに、小さな庵を持っていたのです。

 

この叔母が甥(死亡した僧侶)が亡くなった翌年(つまり、赤ん坊が生まれる前年)に不思議な夢を見ていたのです。

 

それは次のような夢です。

私の家の地面に白いシートが敷かれていて、白い服を着た子供が座っていました。

子供の横には、お供え物の果物が置いてありました。

若い女性も、お供え物のお菓子をもって座っていました。

あなたの子供か?と尋ねると、そうだと答えました。

その子は、私をじっと見て笑っていました。

その時、目が覚めてしまいました。

私は、甥が生まれ変わったのではないかと感じました。

 

その夢から、3カ月して、本当に生まれ変わったことを知りました。

 

4、赤ん坊と、僧侶の叔母の出会い

 

1985年3月、赤ん坊の母プンッオクは、赤ん坊を連れて川へ水汲みに出かけました。

 

この時に無くなったランツォクの叔母シェラップ・ザンモは、この男の子に初めて出会ったのです。

私は、川で羊の面倒を見ていました。

すると、夢で見た女性が子供と一緒にやってきたのです。

遠くから、子供は私に微笑みかけていました。

私が、おいでというと、あかちゃんはすぐ膝の上に乗り私の顔を見ました。

あまりにも、はやく私になれたので意外でした。

その子は周囲の人に似てないし、肌も白くて健康的でした。

 

母親は、この子は偉いお坊さんの生まれオンボー(占い師ボー(占い師)に言われ、この子を清らかに保つように言われたと話していました。

母親のプンツォクは、オンボーに例の夢の話をしたら、

「この子は将来、きっと高僧になる。母乳をやめなさい。この夢の話はもうしないように」

と注意されたそうです。シェラップに会ったのは、その直後でした。

 

この出会いから、プンツォクをスキッジョルは、尼シェラップの家に遊びに行くようになります。

 

 

5、転生を示す不思議なこと

 

母親のプンツォクは子どもが1歳半を過ぎたころから、少しずつ不思議なことが起きてきたといいます。

 

母親は次のようた体験をします。

尼さん(シェラップ・ザンモ)の家へ、スキッジョルを連れて行った時です。

あの子は家の外にいた犬に、なれなれしく触って祝福をしていました。

家の中で、尼さんがお茶を出してくれました。

あの子はいくつかある湯飲みのうちから、死んだ僧侶の湯飲みのみをとって飲みました

 

亡くなった僧の叔母のシェラップ・ザンモは次のように話します。

私は、子供を家の中に招いて、「ここへきて、お茶をどうぞ」と言って、お茶の用意を始めました。

すると、「そこにあるストーブは僕のだよ」と、母親に言っているのが聞こえました。

台所でお茶を出すとき、どのカップで飲みたいかを尋ねたところ、亡くなった僧(甥)が使っていた木のカップを選びました。

彼が隣の部屋に行きたがったので開けると、彼は甥が死んだときに使ったタンカ(仏画)をみつけて、

「これを、どこで手に入れたの?」と聞きました。

わたしは、「これは、あなたを地上に戻してくれたタンカなのよ」と説明しました。

今度は、彼の仏具の鍾(しょう)をみつけました。

彼は怒ったように私に聞きました。「ほかの鍾はどうしたの?」

ですから、もう一つの鍾をやりました。

そうすると、彼は母親と私を賞を使って祝福してくれました。

彼はその鍾を欲しがったので、持たせました。

このようないろいろな不思議な出来事があり、母も僧の叔母も、子供が生まれ変わりだと考えるようになってきたのです。

 

スキッジョルは成長が早く2歳ですっかり言葉を覚えたといいます。

生前の記憶があったのは、1歳半から4歳くらいまでだったそうです。



3、証明された僧の転生

1、転生を証明するための調査が始まる

 

これまでに起こった出来事を受けて仏教界は、すぐに調査団を組織しました。

チベット仏教では、生まれ変わりが認められるためには、いくつかの決まった要件を満たす必要があります。

数人の僧侶からなる調査団が、ティンモスガン村に来て、ゾッパ(スキッジョルの新しい名前)の写真を撮ったり質問をしたりしたのです。

 

以下は調査団に加わった僧の証言です。

死んだ僧の叔母の家で、彼はいろいろなものを正確に見分けました。

たとえば、箱の中に入っている僧の服を見て「これは僕の服と毛皮だ」と言って、何枚もある毛皮のなかから、死んだ僧のものをぴたりとあて、取り出したのです。

それと何といっても、身体にある弾丸の痕が証拠でした。(リキル寺院ロブサン・ゴチャッパの証言)

黒い痣がありました、ちょうどデモでウチョス・ランツォクが撃たれた場所に会ったのを確かに見ました。

子供もここを撃たれたと言っていました。(リキル寺ニャルタックの証言)

 

また、母親は次のように言います。

1歳半ぐらいになったとき、あの子は自分で自分の身体にある傷のことを言い出したのです。

あの子は、これが弾が当たった痕だよ」と言いました。そこには確かにあざがありました。

 

こうして、調査団による聞き取りや確認が行われたのです。

 

2、公認されたランツォクの転生

 

こうした痣が決め手となり、1987年3月、ラダックの仏教界は正式にゾッパがランツォクの生まれ変わりであることを認めました。

そして、スピトク・ゴンパの立春の祭りの当日、公に転生を宣言したのです。

 

この祭りには、毎年1,000人を超す村人が集まります。

その祭りのクライマックスにゾッパは寺の中の広場に連れていかれ、数人のリンポチェ(活仏)にカタ(白い布)を指しかけられました。

こうしてゾッパは、ランツォクの転生者としての祝福を受けたのです。

 

4、その後のゾッパ(スキッジョル)

1、リキル・ゴンパでの修行

 

転生を公認された後、ゾッパは、普通に家の手伝いをしたり、読み書きを学んで育っていきました。

そのうちに前世の記憶も薄れていきました。

ただ警官を怖がって怖がっていたといいます。

 

6歳になると、自分から希望して出家します。

リキル・ゴンパ(リキル寺院)に引き取られました。

 

ラダックの寺では、小僧は老僧と二人で小さな部屋に住み、老僧の身の回りの世話などをしながら修行します。

ゾッパは同じティンモスガン村出身で、遠縁にあたるロブサン・ゾッパについて、2年間、チベット文字の読み書きや文法を勉強しました。

 

ロブサン・ゾッパは亡くなったランツォクとも親しく、ともにチベットのラサに修行に行った仲でした。

彼が見ても、少年は話し方、食べ方などのしぐさが、ランツォクにそっくりだったといいます。

 

2、南インドのセラ寺で修行する

 

その後、8歳になると、ヒマラヤを下ります。

そして、ゾッパは南インドに再建されたチベット名門の学問寺院であるセラ寺に入門します。

 

亡くなったランツォクは、とても博学で、寺の戒律も守り、人格的にも愛される僧侶でした。

その生まれ変わりの少年に、最高の学問を受けさせたいというリキル・ゴンパの僧侶の希望でだったのです。

 

セラ寺は、もともと、ガンデン寺、デスプン寺と並ぶチベットの3大寺院の一つでした。

ゾッパは、セラ寺の伝統に従って、小僧を含む25人が生活するラダック出身者の僧院で生活します。

仲間の話では、ゾッパはお経を覚えるのがとても早いといいます。

 

セラ寺のラダック僧院では、ゾッパが生まれ変わりだということはあまり知られていないようです。

それは、本人があまりそのことを話したがらないということもあります。

それに南インドに来たのは、ラダックにいる限り、転生の話題を避けて通れないということもあったのです。

 

 

5、おわりに(転生の記憶がある人の共通点)

 

ここまで、デモで撃たれて死亡した、チベット高僧の転生の物語を見てきました。

 

これまで別のBlog記事でも生まれ変わり(輪廻転生)を扱ってきました。

生まれ変わりの話には、次のようないくつかの共通点があります。

  • 前世の記憶が保たれている時には、前世で生きていた時の場所、人、物と再会した時に、それを正確に判別できる
  • 前世で死亡の原因となった怪我の傷が、生まれ変わった後には、同じ場所に痣として残っている
  • 前世の記憶は、幼少期までは保たれていることが多いが、その後は次第に薄れていく
  • 前世で学んだ事は、今世では飲み込みが早いため、周囲が驚くような速さで習得していく

ここにあげました、共通点は、すべてが当てはまる場合もありますし、一部分だけの場合もあるようです。

 

ゾッパ(スキッジョル)の場合は、これらのすべてが当てはまっていますね。

 

今回は、『NHKスペシャル チベット死者の書』(NHK出版社)より、チベット高僧の転生物語の部分を、読みやすくまとめました。

より詳しくは本書をご覧になっていただければと思います。

 

 

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