みなさん、こんにちは。
「お前はもう死んでいる」
という言葉、これは、アニメ『北斗の拳』で有名な人気のセリフですね。
今回は、このセリフが、はたして、死者に通じるのか、そしてなんらかの効果があるのか、について考えてみたいと思います。
Contents 目次
1、死者に対して、「死んでいるよ」は通じるのか?
1、「お前はもう死んでいる」
このセリフは、主人公ケンシロウが、敵と戦うときに、「あたったたたたたたたっー!」と相手の経絡秘孔(けいらくひこう)をついてからいう言葉です。
相手はまだ倒れていないのですが、その時にケンシロウが「お前はもう、死んでいる」というのです。
でも、厳密に言えば、相手はまだ生きているわけですから、ここのところは本来、
「お前はまもなく、死ぬ」
というのが正確です。
でもそんな小難しいことは、みなさんだって、どうだっていいことでしょう。
とにかくこの「お前はもう、死んでいる」の言葉を聞いたどう猛な敵は、「あべし!」「ひでぶ!」とか言って、身体を内側から爆発させて死ぬのですね。
この場面は、見ていて非常に面白いところです。
「お前はまもなく、死ぬ」では、ちっとも面白くないですからね。
「あべし!」の語源
この「あべし!」ですが、ちゃんとした語源があるそうです。それは「あって当然だ」「きっとあるだろう」という意味の「あんべし」だそうです。つまり、「オレの命はあって当然だ!」という意味のようです。
2、生きている死者
さて、ここからは本題です。
「お前はもう死んでいる(もう死んでいますよ)」という言葉ですが、実際にわれわれ人間が死んだ場合に、それがいったいどこまで通じるのか?
ということを考えてみようと思います。
死んだ直後に人はどのようになるのかは、これまでの私の記事にもいくつか取り上げました。
死んでしまっても、自分が死んでいることに「気づかない」という状態があることを示すいくつかの証言があります。
ここで、「死んでいる」ということは、肉体上の「死」を意味します。
具体的には心臓が止まってしまうことです。
もっというならば、脳死状態になり、しかも、人工心肺装置も無く心臓も停止している状態からが、「死」と言えそうです。
その後に遺体が荼毘に付されてからは、明らかにその人は「死んでいる」のはいうまでもありませんね。
ところが、本人は、「生きている(つもり)」の場合がしばしばあるようなのです。
次に、その例を見てみましょう。
2、死後、10年間もこの世で「生きていた」女性
死んでいるのに、「生きていた」というのは奇妙な表現です。
でも、この本人の話を読めば納得できるでしょう。
1、本人の前世の記憶の証言
前世(男)
17歳のときに文化大革命があり、銃を持った人から逃げるために走っていた時、橋から落ちて死にました。
でも、落ちたときには死んだとは気づかず、そのまま走り続け、帰り道が分からなくなってしまいました。
お腹が空いたときは、お寺でお墓にお供えしてあるものを食べたり、川の水を飲んだりして、10年間を過ごしました。
疲れたときは木の上で寝ました。
ある日、お腹が空き、おいしそうなものを持ったおばさんがいたので、そのひとのあとをついて行きました。
すると突然、赤ちゃんになったのです。
生まれ変わって、それまで死んでいたことが初めてわかりました。
わたしは10年間も死んだことを知らないで過ごしていたのです。
この男性は、現在は女性に生まれ変わっています。
今世(女)
赤ちゃんになっても、前世のことは忘れませんでした。
すべて覚えていたのですが、言葉がしゃべれなかったので人に伝えることが出来ません。
2、10年間も「生きている」と思って、〈この世〉で生きていた死者
この女性は、前世では男性だったそうです。
崖から落ちて死んでいます。
それがなんと、自分が死んでしまったことにはまったく気づかずに、そのまま10年間も死後の世界を「生きて」いたというのです。
突然の予期しない死であったためか、10年もの間、自分が「生きている」と思っていたようです。
このように人は死後も、自分の死を自覚しない場合があるようです。
この女性の場合は、死後はそれほどの苦しんではいないようです。
では、この女性以上に悲惨な状態に陥った人はどうでしょうか?
もちろん、その場合は、自分が「死んでいる」とかを認識する余裕などはありません。
それを次に見ていきましょう。
3、釈尊と大目犍連が視た、「のっぺらぼうの肉のかたまり」
1、泣き叫び苦しむ霊体を見た、目連尊者
ここではまず、雑阿含経(ぞうあごんぎょう)『屠羊者経(とようしゃきょう)』を見てみます。
勒叉那比丘(ろくしゃなびく)は、大目犍連(だいもくけんれん)に向かって、こう言いました。
「わたくしは今朝、あなたといっしょに耆闍崛山(ぎじゃくっせん)をでて、乞食修行に出かけましたが、途中、あるところで、あなたが欣然(ごんねん)として微笑されました。
(中略)
そこで、いま、改めて質問いたします。あのとき、あなたは、なんの因縁をもって、あのようにニッコリと嬉しそうに笑ったのでありますか?」
尊者・大目犍連は、次のように勒叉那比丘に語った。
「わたしは、あの道のなかで、一人の大きな人間が全身、皮がなくてのっぺらぼうの、肉のかたまりのようになって、虚空をふわふわと歩いていくのを見ました。
その者に、(霊的な)カラス、トビ、鵰(クマタカ)、それにワシ、野生のキツネ、餓狗(飢えた犬)がつきまとい、肉を噛んで食いちぎって食べて、さらに脇腹よりその内臓をとってこれを食っていました。その苦痛たるや切迫し、声の限りに泣き叫びんでいる(啼哭号呼せり)。
それを見てわたしは思ったのだ。なるほど、こういう人間(自分の欲のために身勝手な理由で、人を殺したり、苦しめた者)は、こういう体になって、こういう地獄の苦しみを受けるのだな。そう思って、わたしは思わずニッコリと笑ったのです」
ここで登場する大目犍連は、釈尊の十大弟子の一人で、神通力第一と言われた人です。
目連尊者(もくれんそんじゃ)とも言われます。
わたしたちが夏に行う「盂蘭盆会(うらぼんえ)」は、この大目犍連の母が餓鬼界に堕ちて苦しんでいるのを救うために始まったと言われています。
その目連尊者が、勒叉那比丘(ろくしゃなびく)という下っ端の弟子と歩いているときのことです。
生きているときに多くの人を苦しめた人が、現在はカラスやトビなどの霊的存在に苦しめられている姿を観て、ニコッと笑ったのですね。
大神通力者ですから、こうした霊的な状態を見ることができたのですね。
2、ブッダ釈尊は、どう解釈するか?
続きをみてみましょう。
(その話をお聞きになっていたお釈迦様は)
「よろしい、修行者たちよ。ただいまの大目犍連のいったことは、その通りです。
わたしの弟子の中で、実相を見る目をそなえ、実相を知る智慧を持ち、実在の意義を悟って、正しい仏法(成仏法)に通達した者は、みな、大目犍連の見たような衆生を見るのです。
わたしもまた、この衆生の、こういう姿を見る。
(中略)
この衆生(肉のかたまりのようになって、虚空をふわふわと歩いている男)は、過去世において、多くの人を殺し、苦しめてきました。
その罪により、すでに百千歳地獄の中に堕ちて無量の苦しみを受け、その後、いま余罪によって、このような苦しみを受けているのです。
弟子たちよ、大目犍連の見たことは真実にして正しいのです」
と。
この話の中で、一人の大きな人間が、「皮がなくてのっぺらぼうの、肉のかたまりのようになって」という状態で登場してきます。
もちろんこれは、大目犍連がその神通力によって“霊視”した、〈霊的な存在〉の人のことです。
ですので、一緒に托鉢に同行していたロクシャナ比丘には見えなかったのです。
さらに、こののっぺらぼうな男にたかって肉を噛んで食いちぎっている〈カラス〉や〈ワシ〉、〈野生のキツネ〉などの動物たちも、〈霊的な存在〉です。
なので、霊眼のないロクシャナ比丘には見えなかったのです。
これについて釈尊(釈迦)が弟子たちに、わかりやすくお話をされたのですね。
3、「わたしもまた、この衆生の、こういう姿を見る」
釈尊(ブッダ)がそれをお聞きになり、解説を加えています。
そして、釈尊は言う、
「わたしもまた、この衆生の、こう言う姿を見る」
と。
わたしもこの男の、もがき苦しんでいる姿を見ているのだ、とおっしゃているのです。
そして、この男は過去世において、多くの人を殺し苦しめた罪によって、何千年もの間、地獄に落ちて無量の苦しみを受けたのだ、と。
そのあとに今も、その“余罪”によって、(霊的な)動物たちに肉体を食いちぎられるという苦しみを味わっているのだ。
このようにおっしゃっているのです。
つまり、これは“余罪”であって、まだまだ大したものではないぞ、と。
「本当の地獄の苦しみは、こんなもんじゃないぞ! 地獄の本当の苦しみを長い間経過してから、この男はその“余罪”で、今この状態なのだ」ということなのです。
肉体を動物達に食いちぎられる苦しみは、本当の『地獄』に比べればまだまだ序の口だぞ、ということなのです。
怖い話ですね。
釈尊ご自身がそのように言っているわけです。
これでは当然、自分が「死んでいる」という自覚はない。
そんなどころではないわけです。
ただただ激しい苦しみだけの状態になっている。
そういう状態の霊体です。
4、死者には通じない、こちらの声
1、それでも死者の苦しみは続いている
さて、本稿のテーマ「お前はもう死んでいる」を死者に対して言った場合、それは死者に通じるのか、という問題です。
その答えは、特殊な場合を除いて、通常は通じない(死者には届かない)と思われます。
自分の死を自覚しない人(霊)を「不成仏霊」と言います。
自分の死体を見たり、遺体が埋葬されたりする場面を「見ていた」という証言はあります。
けれども、生きている人から「話しかけられた」という証言はないように思います。
つまり、話しかけられても、死者には届かない、ということでしょう。
生きている方も、通常は、そこに死者がいるとはわからないわけです。
霊が「視える」人が、その霊に対して、「あなたはもう死んでいるのですよ」と言ったところで、霊の方には通じないのです。
私たちの生きている世界と、死んでしまった人が「生きている」世界は次元がちがうからです。
盛大な葬式を営んでも、法要をおこなうお坊さんが「霊能力」がない場合には、いくら成仏を祈ったところで死者には全く通じない、ということが考えられるわけですね。
こちらの声が聞こえないため、死者は自分の死を自覚できずに、苦しみ続けるのです。
チベットにおいては、死者が苦しみの世界を輪廻転生しないように、死者の耳元で“仏教の教え”をささやき続けます。
これが有名な、『チベットの死者の書(バルド・トドゥル)』です。
「トドゥル(トエ・ドル)」というのは、「耳で聞いて解脱する」という意味です。
【参考記事】『チベットの死者の書』について、わかりやすく解説しました。
2、死者に死を悟らせて、本当の安らぎを与えるには
では、何が必要なのでしょうか?
大切なのは、
死者の魂を冥界(冥土)に送り届ける“供養法(成仏法)”の力
が必要なのです。
ですので、盛大な葬儀法要をとりおこなっても、それで亡くなった方が安らぎを得られるかどうか?
何百万円とする高価な戒名をつけても同じです。
正しい“供養法(成仏法)”を修することによって、霊魂(死者)に届き、安らぎを得るわけです。
このことについて、桐山靖雄師は、『守護霊を持て』で、次のように述べています。
まず、解脱供養法を修する阿闍梨(あじゃり)が、諸法皆空(しょほうかいくう)のさとりを完全に体得していなければならない。
つぎに、その導師が高い霊能力を持っていて、苦悶する不成仏霊にそのさとりをつたえる力がなければならない。
そうして、その導師のさとりが、そのまま不成仏霊のさとりになって、解脱するわけである。
葬儀やお墓参りをないがしろにするのはよくないのは、もちろんです。
ですが、死んでしまった者の立場になって考えれば、それだけで安心してしまってもダメだということがわかります。
よく聞くむかしばなしにこういうのがある。
夜な夜な幽霊の出る家があって、いろいろな坊さんや、修験者が入れかわり立ちかわり出かけてゆくが、みんな歯がたたず、おそろしい目にあって、ほうほうのていで逃げかえる。
あるとき、名僧といわれる坊さんがいっておがんでやると、さしもの幽霊が、ピタリと出なくなる。おかげで成仏いたしましたと、その霊がお礼にあらわれる、というはなしである。
(中略)
どうしてであろうか?
それは、凡僧はただ一心にお経をあげるだけ。お経の説くさとりの内容はすこしもわかっていないのである。
修法しても習った形式だけをなぞっているのみで、さとりがないから、手足を動かしているだけということになる。
名僧は、お経なぞあげなくても、お経の説く真理をさとっているから、そのさとりが幽霊にとどくよう、一念を凝らしておればよいのである。
テレパシーでそれが届いた瞬間、幽霊もさとって、成仏するというわけである。
このように、いちばん大切なことは、幽霊(死者)に対して、きっちりと〈さとり〉を伝える側がいるのかどうかが、ということなのです。
必要なのは、次の2つの能力です。
- 諸法皆空(しょほうかいくう)のさとりを、完全に体得していること
- そのさとりを、テレパシーで伝えることができること
この能力がなければ、死者には何も伝わらないのです。
ケンシロウに、経絡秘孔を突かれて、「お前もう死んでいる」、と言われて、やっつけられた悪人たち。
彼らは、多くの人を苦しめてきた連中ばかりですから、目連尊者がみた霊体のように、死後は非常に長い間苦しみ続けることになるでしょう。
今回は、いろいろなパターンがある死者の状態から、ほんの数例をみてみました。
みなさんの、これからの長い長い人生(死後も含めて)に、ご参考になれば幸いです。
5、まとめ
- ケンシロウの「お前はもう、死んでいる」は、厳密に言えば、相手はまだ生きているわけですから、「お前はまもなく、死ぬ」である
- 死んでしまっても、自分が死んでいることに「気づかない」という状態がある
- 10年間も「生きている」と思って、〈この世〉で生きていた死者だった人の記憶
- 過去世において、多くの人を殺し、苦しめてきた人は、非常に大きな苦しみを長い年月味わい続ける
- その霊に対して、「あなたはもう死んでいるのですよ」と言ったところで、霊の方には通じない
- 諸法皆空(しょほうかいくう)のさとりを、完全に体得してテレパシーで伝えることが必要